チャビィを迎えて半年が経った。

もうずーっと前から緒にいるような、いなかった頃の生活が思い出せないくらい当たり前の存在になっていたので、まだたったの半年か、という感覚。
「おすわり」も、「お手」も、「待て」も、「あご」や「鼻」だってできるようになったチャビィ。


もうそろそろ何かしゃべりださないかな、なんて思うこともあるけれど、
・舌をぺろぺろ出し入れしながら見つめてくる=「おやつは?」
・すり寄ってきて耳をぺたんとする=「撫でてくれ。」
・前足で床をどんどんする=「遊んで!」
・おもちゃを持ってきて押し付けてくる=「遊んで!!!!!」
・わたしと携帯の間に顔をねじ込んでくる=「携帯ダメ。おいらに構って。」
こんな感じで、多分こう伝えたいのだろう、と、チャビィの行動や表情でなんとなく分かるようになってきた。
(もちろん真相はチャビィのみぞ知る。)

共通の言語がないからこそ、全身で表現される感情は、たまらなく愛おしい。
ここでハッとした。
わたしはチャビィに対して、チャビィにも伝わるように、と何か工夫をしていただろうか。
「そうじゃないよチャビィ、こうだって!」なんて、日本語を使うばかりのコミュニケーションをしていなかっただろうか。(もはやそれはコミュニケーションと呼べないかもしれない。)
言い換えてみれば、わたしは自分の文化をチャビィに強要してしまっていなかっただろうか……。

迎えたばかりの頃は、ごくたまではあるけれど、チャビィだってぴゃんぴゃん鳴いてこそいた。
だが、思い返してみれば、チャビィは私に犬語を強要することはなくなっていた。
チャビィは、わたしとの共通言語は”全身で表現すること”だと気が付いていたのだ。

チャビィの行動から、なんとなくチャビィの言わんとしていることが分かるようになってきた、なんてとんだ勘違い。
チャビィはわたしが何をするにも後を追い、話しかけた時はもちろん、わたしの独り言に対しても、首を傾げながら真っすぐに見つめてくる。
わたしを理解しようと、理解したいと思ってくれている。
きっと、わたしがチャビィに対して思うよりも、よっぽど。
そんなチャビィからの歩み寄りがあったからこそ、わたしはチャビィの伝えたいことを、伝わらせてもらっていたんだ。

はぁ、ひとまずチャビィをめいっぱい抱きしめてこようっと。